通っていたスポーツジムが、コロナ禍で休業したのをきっかけに、毎朝、庭の小さなテラスでヨガをするようになった。生まれつき「まな板」のように堅い身体で、ヨガモデルが示す理解不能なポーズに挑みながら、マット上に這いつくばって、一人、脂汗を垂らしている。
すると、今まで気にも留めなかったテラスの脇に植えられている小さな背丈の草本が、自然と目に入るようになった。
ある朝、葉の上で光る一滴の水滴が、静かに葉の上を滑るのを見た。よくみれば、すべての茎の分岐点に水滴がとどまっている。夜のうちに空気中から集められた水分が、一枚の葉の上で水滴となり、音もなく、葉の付け根から茎に渡され、木部を伝い、根元の土に静かに流れついていた。一枚一枚の小さな葉に集まる水滴が、「命の水のリレー」を日夜繰り広げ、植物全体の生存そのものを支えていた。
テレンス・マリックの最新映画「名もなき生涯」で描かれるのは、この「一枚の葉」である。
物語の舞台は、第2次世界大戦中のナチスドイツに併合されたオーストリアの山村。妻と母そして3人の娘と穏やかに暮らしてきた敬虔なクリスチャンである一人の農夫が、ヒトラーへの忠誠と徴兵を拒否する。ただそれだけの理由で、村人たちや司祭にまで迫害され、ベルリンの裁判所で死刑の判決を受ける。実在の人物、フランツ・イエーガーシュテッターをモデルにした物語。
テレンス・マリックの他の作品同様、本作も、荘厳な自然の中に抱かれる「一枚の葉」としての個人と、ただひたすら沈黙を貫く「創造主」との対峙が静謐に描かれる。
「おまえ一人で世界が変わるとでもいうのか。」
弁護士(法)、司祭(宗教)、軍人(政府)が彼の翻意を試みる。
「ただの『言葉』にすぎないではないか、心は別でかまわない。ただ『ハイル・ヒットラー』と記された宣誓書にサインするだけで、おまえは自由になるのだ」。
彼は応える「いえ、鎖に手足を縛られているが、今、私は『自由』です」
繰り返される虐待とリンチの中でも、彼の心は、常にアルプス山麓に広がるふるさとの自然の中にあった。瞳を閉じれば、6月の緑の美しさと陽光の煌めきを浴び、よどみなく流れる清らかなせせらぎと水車小屋の小道の向こうに、草原を転がりはしゃぐ子供たちの笑い声が聞こえた。
彼にとって信仰とは、五感を通じ体内に沈殿していた家族も含む「大いなる自然」との交流の月日と一体であり、それが彼の「自由」を支えつづけた。
今年、コロナという侵略者に世界の大都市がそのまま隔離病棟化した。ニューヨークに暮らす作家、バリー・ユアグローの日常もある日突然、自室に隔離され、いつ終わるとも知れぬ、深い闇の中に沈んでいった。
内面の深い場所に沈みながら、ユアグローは、「正気を保つため」と一言メッセージを添え、日本の翻訳家・柴田元幸氏に救難信号を送るように一遍の短編「ボッティチェリ」を送信した。こうして、4月5日から5月11日の間にユアグローが、友人でもある柴田氏に励まされながら著した12の短編が、先日、短編集「ボッティチェリ 疫病の時代の寓話」として日本で緊急出版された。
短編集といっても、掌に収まる40ページあまりの薄い小冊子なのだが、ページを開くと12篇のすべての寓話は、安易な理解を拒絶する奇想天外な空想スケッチであふれている。それは、バリー・ユアグローという一人の作家が、コロナウイルスと政府の戒厳令に手足を縛られながらも「自由」のなんたるかを世界に示した、芸術家としての生存証明であり、それはまさに現在進行形のニューヨークそのものであった。
今、人類は新型コロナウィルスと日々戦っている。
未知のウイルス危機に対して、各国政府は、大文字のスローガンを繰り返し連呼するようになった。メディアやネット上では、「ポスト・コロナ」を語る学者が、日々大量生産されている。眼前に繰り広げられる事態の意味を学者に求め、手っ取り早く安堵を得んがために、これまでに使い古されたフレーズを組み合わせ、わかりやすさを優先させた解説が、人々の間に流布されて常識とされていく。
他者の思考が、いつしか自分の思考であるかように錯覚し、かすかに聞こえていたはずの調子外れの自分の足音は、いつの間にかき消さていく。
デモクラシー? コミュニティー? エネルギー?
これらの言葉の意味を私たちは、本当に理解しているのだろうか?
今、私たちに問われているのは、「一枚の葉」から見えている世界の真実であり、それを想像する力である。戦いの最前線は、病院や戦地だけにあるのではない。
最後に、映画「名もなき生涯」のラストに掲げられる19世紀のイギリスの女性作家ジョージ・エリオットの詩をここに記すことを許してほしい。
歴史に残らないような行為が
世の中の善をつくっていく
名もなき生涯を送り、
今は訪れる人もない墓にて眠る人々のおかげで
物事はさほど悪くはならないのだ