クリストファー・ノーラン監督の最新作『オッペンハイマー』が日本公開された。世界中で絶賛され、アカデミー賞7冠を達成した本作品は、原子爆弾開発を主導した科学者 J・ロバート・オッペンハイマーの人生を軸に描いた壮大な歴史映画である。
かつて原子力開発に携わった経験を持つ一人として、広島・長崎・福島を経験した日本人の一人として、そして「今」という時代を生きる人間として、この映画を観て考えたこと・感じたことを、映画評という枠を超えて考察する。
オッペンハイマーという「コップ」
「コップの中の水」をどう見るかという古典的な問いがある。水の方を見れば充分にあると捉え、空隙の方を見ればまだ足りないと見る。
この映画への圧倒的な賛辞からは「コップの水」は満ちあふれているのだろう。とはいえ、天才物理学者オッペンハイマーの人生や人物も、原爆開発とそれを取り巻く国内外の政治も、3時間の映画では到底描ききれるわけもなく、欠けているもの(批判)は避けられない。広島・長崎の惨事が描かれなかったという批判がある。原爆が日米の戦死者を減らしたという神話、先住民族の核被害には触れられないなど、未だにアメリカにはタブーがあることも、逆に明らかにしている。
今日、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのガザ侵攻、北朝鮮のミサイル開発など、核兵器が後ろに透けて見えるかたちで国際紛争の多発が緊張感を高めている。その「今」という時代に、ノーラン監督がオッペンハイマーという「コップ」に水を入れて、私たちの目の前に出したことで、映画を超えて多様な視点から議論を喚起してくれる。
- 原爆開発の歴史をどのように捉えるか?
- 科学技術と倫理の関係は?
- 核兵器の脅威と現代社会への警鐘は?
- 個人と国家の責任、科学者の倫理観とは?
- 広島・長崎の被爆体験と記憶の継承は?
- 福島第一原発事故の教訓とエネルギー政策の未来は?
これらを自ら問いかけることで、本作は、映画を越えて現代社会における重要な課題について考えるきっかけを与えてくれた。
原子力の帰趨(すう)
天才物理学者としてのオッペンハイマーが活躍した1900年代初頭は、映画でも描かれているとおり、相対性理論や量子力学など現代物理学の基礎が築かれた輝かしい黄金期だった。そこから核分裂の発見、原爆・水爆開発、広島・長崎への投下、核軍拡競争へと一気に展開していったさまが描かれる。それを個人史として体験したオッペンハイマーはまさに「アメリカン・プロメテウス」であり、その功罪は永遠の課題として残るだろう。
その後、「原子力平和利用」として原子力発電の開発利用が進められてきたが、核廃棄物処分の問題や福島第一原発事故で経験した破局的な事故リスクなどの「副作用」が避けられず、エネルギーの主流になりきれないまま、今日では石油代替エネルギーの主役の座を再生可能エネルギー(とくに太陽光発電と風力発電)に譲りつつある。太陽エネルギーも(宇宙にある)「核融合エネルギー」であることは皮肉だが、地上には核リスクだけが残った。
科学技術と人類の倫理
映画は、現代物理学が産み出した原子力という科学技術が、人類にもたらした光と影を鮮やかに描き出す。オッペンハイマー自身は、科学的探求心と愛国心によって原爆開発に尽力したが、その結果、広島・長崎に計り知れない苦しみをもたらし、人類全体に核破局の恐怖をもたらした。
今日、科学技術が私たち人類にもたらした破局的なリスクは、少なくとも3つある。ひとつはもちろん核戦争リスクだ。ノーラン監督が前作(テネット)から考え続け、この映画の主題として問うたとNHKのインタビューで答えている。
第2に気候危機である。同じインタビューのなかでノーラン監督の十代の息子が「核戦争リスクよりも現実感がある」と答えたエピソードが印象に残る。
第3の破局的なリスクは人工知能(AI)である。2022年に OpenAI が ChatGPT を公表してから、AI開発競争が激化・加速しており、人類全体の能力をAIが超えるのも時間の問題だと考えられている。AIの軍事利用がすでに始まっているだけでなく、超知能となったAIから見ると人類の存在意義そのものが失われる恐れさえある。これをイリヤ・サツケバー氏(OpenAI の主任技術者)は「今の人間と動物との関係」に近くなると喩えている。OpenAI 代表のサム・アルトマン氏は、AIにおける「オッペンハイマー」かもしれない。
こうした新たな脅威も現実に迫っているなか、これらのリスクを回避するためには、科学技術の進歩と倫理的な責任の両立が不可欠だが、それが容易ではなく、易々と暴走することも映画は暗示している。
複雑に絡み合う科学と人間と政治
映画は、科学技術の発展と政治的・社会的な状況が密接に関係していることを示唆する。相対性理論や量子力学などの科学的発見は、純粋な知的探求心から生まれたものである。しかし、ナチスドイツの台頭と第二次世界大戦前夜という時代背景は、ドイツや日本、そして米国で原子爆弾開発を加速させ、オッペンハイマーがパンドラの箱を空けることになった。
映画は、オッペンハイマーという一人の人物を通して、科学者としての功績、国家への貢献、そして個人としての葛藤を描き出す。「原爆の父」となり「救国のヒーロー」として頂点に立ちながら、その後は反共主義が煽った赤狩りの嵐のために「国家反逆者」として公職を追われ、晩年に名誉回復という、ジェットコースターのような人生を追体験させられる。アインシュタインも、ナチス・ドイツへの恐怖感からルーズベルト大統領に原爆開発を促す手紙を送り、後に唯一の後悔と悔やむことになる。
こうした個人の内側にある知的探求心、倫理観、対抗心、嫉妬、恐怖などを織り交ぜて、それが人間関係や政治的な対立、そして反ナチスや反共といった社会全体のダイナミズムを生み出すさまとして、人間と科学技術と政治との複雑に絡み合った関係性が描き出されている。
映画館を出て
本作品は、映画館を出てからも、科学技術と社会の関係、倫理的な責任、人類の未来について、より深く思索を巡らせるきっかけを得ることができる。映画が提起する問題は、単に過去の歴史にとどまらず、現代社会においても、そして未来に向けても、私たちが真剣に取り組むべき課題だからだ。科学技術の倫理的な使用、持続可能な発展、平和の維持は、私たち全員が関わるべき重要なテーマであり、本作品は、これらのテーマについて考え、議論を深めるための貴重な機会を提供してくれる。
この映画が示すのは、科学と政治、倫理が複雑に絡み合う現代社会において、科学者個人の責任、そして私たち一人ひとりが持つ社会的な責任の重要性である。オッペンハイマーの人生は、科学技術がもたらす可能性とリスクの両面を示している。科学者としての彼の業績は、科学技術の発展とその社会的影響、倫理的考察を巡る永遠の問いを我々に提起する。これらの課題は、私たち一人ひとりが日常生活において意識し、考慮する必要がある。
本作品はまた、科学技術と倫理、そして人類の未来についての重要な会話を開始するためのきっかけを提供してくれる。それは、私たちが共有する未来をかたち作るための、科学者、政策立案者、そして一般市民が参加する多様な対話の場を設けることを促している。科学技術がもたらす利益を享受しながらも、そのリスクを最小限に抑えるために、どのようにして科学と倫理、そして政治を調和させることができるのか。この問いへの答えを探求する過程で、科学技術と社会の関係について深く考えさせる作品である。この問いに対して、科学者、政策立案者、一般市民それぞれが自分の役割を理解し、積極的に参加することが、より良い未来を築く鍵となるのではないか。
映画館を出た後も、オッペンハイマーの物語が私たちの心に残り、科学技術の未来についての議論を刺激し続ける。それは、単なる映画の体験を超えて、私たち自身の未来について深く考え、行動することへの触発となることを期待したい。
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映画芸術「映画「オッペンハイマー」:科学技術と人類の十字路」春 487号(2024年4月30日)より転載
@energydemocracy.jp 映画『オッペンハイマー』 科学技術と人類の十字路/飯田哲也(2024年4月30日)- https://energy-democracy.jp/5447 映画『オッペンハイマー』が日本公開された。かつて原子力開発に携わった経験を持つ一人として、広島・長崎・福島を経験した日本人の一人として、そして「今」という時代を生きる人間として、この映画を観て考えたこと・感じたことを、映画評という枠を超えて考察する。 #エネデモ #オッペンハイマー #クリストファーノーラン #科学技術 #倫理 ♬ summer’s end – biosphere