多くの人たちが、ドイツのエネルギー転換(Energiewende)は、日本の福島第一原発事故を受けて、アンゲラ・メルケル首相が脱原発を決めたことから始まったと思っています。しかし、Energiewendeは、政府がそれ以前に決めていた脱原発の計画に戻ってきたことに他なりません。ドイツの歴史と社会に深く根付いた長いプロセスは、自然エネルギーの大幅な増加を引き起こす政策を創り出し、いまや低炭素経済への移行の中心的な駆動力となっています。

エネルギー転換のハーフタイム」:環境シンクタンク・エコ研究所による自信にあふれる祝典のタイトルは、アンゲラ・メルケル首相による2011年の福島第一原発後の劇的な決定について、忘れられていた多くのことをよく表していました。いまや2050年までに経済の脱炭素化をめざすこととなった社会的プロジェクトは、メルケル政権が原子力発電からの離脱計画を復活させる数十年前からはじまっていました。

エネルギー転換 - 社会と経済の全面的な変容 - は、長期にわたる草の根運動、事実にもとづく議論、気候変動への関心、主要な技術の発展、そして、ドイツとその他の地域で試みられてきた実践の経験などから生じたものです。(時間軸はこちらを参照)

草の根の抵抗

エネルギー転換の起源はさまざまあるのですが、ひとつの強力なきっかけは1960年代の学生運動から続いて西ドイツで起こった「新しい社会運動(New Social Movement)」でした。

反原発運動は、数年後にエネルギー転換と呼ばれるようになる一連のモノゴトにとって、もっとも重要な新しい社会運動でした。反原発キャンペーンは、1973年にドイツの黒い森に近く、スイスとフランスに接するワイナリー地域のもっとも南西の端でおこった出来事から生まれました。そこには、ヴィールという小村があり、そこでは地域のワイン農家が、近隣のフライブルク大学からやってきた活動家や、フランスやスイスで関心をもつ市民などが原子力発電所の建設を阻止する動きを組織しました。彼らはまずはじめに建設予定地を占拠し、警察が彼らを強制排除し、その様子が全国にテレビで放映された後、電力会社がこれを法廷に持ち込み、最終的には取り下げられました。

それまで、西ドイツの電力会社は、連邦レベルの政治エリートの十分な支援のもとで、国家のエネルギー供給の基礎とすべく、原子力発電の計画を徐々に実行に移しつつあるところでした。キリスト教民主党と社会民主党のいずれの主要政党も、原子力発電の導入を支持していて、なかには安全でクリーンな技術がいつかエネルギー費用をなくすだろうと主張する者もいました。1956年の社会民主党の決議文では「原子力は、今日いまだに暗闇で生きる数億の人々に恩恵をもたらすことができるだろう」と述べられていました。

しかし、戦後西ドイツでは、すでに核分裂をめぐる問題に対する敏感な反応があり、批判的な議論のもとで停滞が生じていました。1950年代から1960年代はじめにかけて、西ドイツ領土内の駐屯地にNATOが管理する核兵器を置いていいのかという冷戦への反対がいくつかの国レベルの平和運動から現れていました。世界中から、プロテスタント教会、労働組合、退役軍人、左翼活動家などが核兵器製造に対する倫理的な抗議、とりわけ、東西紛争の軍事的な最前線となっていたドイツに結集しました。ドイツが原子力発電について敏感であることのひとつの理由として、早くから戦後の核兵器に対する批判が核融合の民間利用と結びついていた点があげられます(1980年代のドイツの平和運動の第二波も若い世代の反原発の動きを開花させました)。

「ヴィールでの抗議が反原発運動とエネルギー転換を形成したと言っても過言ではありません」と、新しい社会運動のリーダーで、活動家のエヴァ・キストープは述べます。「すべての運動は直接影響を受ける場所、地域からはじまります。運動の中心には、農家、ワイン醸造家、家庭、主婦、そして、教会信者がいました。学生と専門家も貢献しましたが、運動の推進力は市民の自己組織的なイニシアチブによるものでした。」と彼女は述べ、数十年にわたる粘り強い抵抗を説明します。エリートの男性支配的な学生運動とは異なり、新しい社会運動は性別、年齢、イデオロギーを超えて拡がったことにキストープは言及します。

ヴィールを超えて、ゴアレーベン、グンドレミンゲン、ヴァッカースドルフ、グローンデ、ブロックドルフといった西ドイツで原子力発電に関連する地域では、原子力の危険性について、また、その拡大を阻止する可能性について、自ら情報を伝えはじめました。

過去に、一般的なドイツ人にとって、エネルギーはとりたててなにか知っておく必要のある問題ではなかったとキストープは述べます。「しかし、一般の人たちが、核廃棄物処分の問題、冷却塔からの温排水による河川温度上昇の問題、放射能とガンの関係、そして、メルトダウンやその他の事故の影響といったような、技術的な問題について資料を読んだり、話し合ったりしはじめました。」

原子力への関心の高まりに応じて、学術研究者やその他の専門家たちは、根拠をもった研究をはじめたり、1977年にフライブルクで設立されたエコ研究所のようなオルタナティブな考え方の研究所やシンクタンク、ワーキンググループを立ち上げはじめました。それらの創設者のなかには、運動集団から現れたミヒャエル・セイラーやライナー・グリースハマーといった人たちがいました。(今日、エコ研究所はドイツにある数十社のグリーンシンクタンクのひとつに過ぎません。エコ研究所は、国内3ヵ所約100名の研究者を含む、155名のスタッフを雇用しています。)

ドイツでは「Day One」という反体制活動のなかに正真正銘の専門家がいました。例えば、ホルガー・ストロームは多作のサイエンスライターであり、1971年に『安らかに破局へと向かう:原子力発電所についてのドキュメンタリー(Friedlich in die Katastrophe: Eine Dokumentation über Atomkraftwerke)』を上梓しています。これは原子力施設の民間利用の技術的側面の詳細を1,300ページにわたって書いたもので、西ドイツでは64万部を売り上げました。世界で最初の「未来研究者」のひとりであるロバート・ユンクのベストセラー『原子力国家(Der Atom-Staat)』では、ウランの民間利用と軍事の関係が検証されました。

原子力技術者のクラウス・トラウベは、60~70年代のドイツと米国の原子力導入において主導的な立場でかかわってきました。その仕事のなかで、原子力産業界は認めようとしない危険性がヒューマンエラーに起因する事故の中にあることを彼は目撃し、考え方を変えることになりました。1979年の米国スリーマイル島の惨事の後、トラウベ(および、それまで原子力に賛成していたSPD)は立場を転じ、原子力発電の技術的側面に関する貴重な情報を運動に提供することとなりました。

ベルリン自由大学の政治学者でエコロジーシンクタンク前所長のルッツ・メッツは次のように説明します。「欧州の他の反原発運動には、原子力産業界から来たトラウベのような人物はいませんでした。そして、彼らはドイツの活動家たちが原子力の詳細をよくわかっていることに感銘を受けていました。トラウベの著作はドイツ国内で広く読まれ、日曜のTVトークショーで議論されるほどでした。」

エネルギー危機

1970年代当時、世界のエネルギーの未来についての議論の焦点は気候変動ではなく、エネルギー危機でした。

第四次中東戦争(1973年)およびイラン革命(1979年)で西側諸国がイスラエルを支援したことをきっかけに、石油を産出する中東諸国が劇的に石油価格を引き上げ、供給を制限したことから、西ドイツを含む世界の主要な先進国は多大なダメージを受けました。エネルギー危機の結果として、その10年間は経済成長の停滞と不況の長期化を目の当たりにすることとなりました。他の国々と同様に、西ドイツでも日曜日に航空、自動車、船舶の利用が禁止されました。1973年の南ドイツで人通りのない都市の路上で馬がフォルクスワーゲンのバンを引いている写真が象徴的なイメージとして残されています。

エネルギー危機は、世界的なシンクタンクであるローマクラブが1972年に発表し、幅広く読まれたレポート「成長の限界」の知見を裏付けました。ドイツ語やその他多くの言語に翻訳されたこのレポートは、多彩な議論を喚起し、世界人口の増加は危険なペースで資源を使い尽くし、すぐに世界経済が行き詰まってしまうだろうという考え方が広がりました。

このレポートとエネルギー危機の警鐘は、国によって異なる反応を引き起こしました。デンマークは自然エネルギーへの転換をはじめました。米国は民主党のジミー・カーター大統領のもとで大規模な研究資金を自然エネルギー開発に充て、ホワイトハウスの屋根に太陽光パネルを設置しました。NASAによる研究は世界ではじめてのメガワット級の風力発電をつくる上での先進的技術の改善に大きく貢献しました。(基本的に、これが今日世界中で使われている風車のモデルとなっています)また、エイモリー・ロビンスのような米国の独立した研究者たちは、従来エネルギーの代替となる「ソフトエネルギー」を、どのようなコストでも普及させる理論の構築にとりかかりはじめました。

しかし、西ドイツはフランスと同じく、ますますエネルギー生産を化石燃料から原子力へと移行させることを決めました。メッツは「エネルギー安全保障のため「石油から原子力へ」という考え方だった」と述べます。

この移行はドイツのエネルギーの将来に対して矛盾した影響を与えることとなります。「それによって、それまでガスや石油といった従来エネルギーの分野で働いていた多くの優秀なエネルギー専門家たちが業界を去ることになりました。」とメッツは述べます。「彼らは自然エネルギーで試行錯誤することを選びました。これがドイツで起こる太陽光発電や陸上風力発電の多くの重要なイノベーションの背景となったのです。」

1970年代を通じて、西ドイツの反原発運動は劇的に成長しました。女性運動、平和運動、環境運動などの新しい社会運動の活動家たちは、反原発運動に共通の動機を見出し、反原発運動もそれらの運動に共通の動機を見出しました。環境運動は、反原発運動のキャンペーンよりも多様で緩い体制でしたが、環境汚染対策、環境保護、リサイクリング、グリーンな経済成長、生物多様性、持続可能な開発、環境に優しいライフスタイル、有機農業などといった、後のエネルギー転換や気候変動対策と通じる多くの問題を主題としていました。

「新しい社会運動にとって、当初、自然エネルギーはそれほど重要なテーマではありませんでしたが、彼らは、汚い化石燃料ではない、原子力の代替を提案しなければならないことを理解していました。」とドイツの社会学者ディーター・ルヒトは説明します。さらに、彼らは当初から自然エネルギーが巧みに組み込まれたオルタナティブな社会の全体像を描いていたことも述べています。そのビジョンは「分散型の構造、ボトムアップのプロセス、参加型民主主義、環境に配慮した経済といった考え方にもとづく社会であり、エネルギーはその適用のひとつでした」と彼は述べます。

1980年、フライブルクを拠点として、米国の自然エネルギー先駆者ロビンスと仕事をした3人の活動家たちが『エネルギー転換:石油とウランのない成長と反映(Energie-Wende – Wachstum und Wohlstand ohne Erdöl und Uran)』という書籍を出版しました。この言葉は、アンゲラ・メルケルが福島の原発事故後に使う約40年前に、環境派の左翼グループがつくり出したものでした。この書籍は、「エネルギー転換」というトピックについて国内各地で学ぶ人々のグループに刺激を与え、ドイツでの化石燃料と原子力の必要性を減らす方法としての省エネルギーの主な指針となりました。

ゴアレーベン、ブロックドルフ、カルカーなどでおこなわれた1970年代の大規模な反原発デモには、関心をもつ市民数万人が集まり、公開討論会のような国民的議論を巻き起こしました。それでも、運動はヴィールでの劇的な成功を繰り返すことはできませんでした。

「ほとんどが敗北だった」と、ヴィール後の数年にわたって反原発運動が成果の上がらない戦いを挑んでいたことについて、ベルリンにあるハインリッヒ・ベル・アーカイブのディレクターを務めるクリストフ・ベッカー・シャウムは言及します。「運動は街頭では莫大な数の人々から支持を得ることができたが、多くの場合、権力と法の前で原子力産業を打ち負かすことはできませんでした。」活動家たちは、政策に影響を与えたり、政治家を味方に引き入れたり、複雑な法律の領域で交渉するといった仕事をおこなう専門家とわたりあうための職業的な訓練を受けていなかったのです。

ドイツの環境政党

大衆社会運動の活動家、さまざまな市民のイニシアチブ、また、ヨーゼフ・ボイスのようなアーティスト、かつての学生リーダーだったルディ・ドゥチュケ、作家のハインリッヒ・ベルなどは、政治や政策立案といった場に影響を与える必要があると結論付けており、それは彼ら自身の政党をつくるということを意味していました。70年代後半を通じて、活動家たちは「グリーン」や「オルタナティブ」といった政党をつくり、地方選挙に候補者を出しました - そして、彼らは議席を獲得したのです。1979/1980年には、彼らは国政政党を立ち上げ、「緑の党」と名付けました。そのシンボルはひまわりでした。その戦略は、片方の基盤をしっかりと社会運動に根差し、もう片方の基盤を政治の分野にもつことでした。

緑の党の誕生により、反原発運動と自然エネルギー支持者たちは国内全域で彼ら自身の議員をもつことになりました - そして、1983年には国会議員をもつことにもなりました。緑の党は、ドイツの脱原発を旗印に高く掲げ、新規原子力発電所の建設停止、核廃棄物貯蔵問題の見通しを明らかにすること、原子力の安全性を高めること、原子力と化石燃料の代替を提示することなどを、政府のあらゆるレベルで推し進めることを目指し、国際的にも主張しました。

緑の党と新しい社会運動が成熟するにつれて、自然エネルギー、省エネルギー、環境に優しいライフスタイル、持続可能な開発、オルタナティブな交通、スマートな郊外デザインなどは重要性を増し、より具体的になりました。緑の党、学術専門家、シンクタンクはビジョンを現実的な政策提言へと落とし込む作業に専念することとなりました。

ベッカー・シャウムによれば、緑の党の最初のプログラムは、再生可能な自然資源からエネルギーを生み出す革新的で独特な提案に満ちていたとのことです。「初期の緑の党には、近所のよろず屋のような人がたくさんいました。彼らは電気、暖房、貯蔵、コジェネなどの実験をしていました。なかには水素が解決策だと考える人もいました。」と、すでに従来エネルギーの代替案に挑戦していたことが述べられています。ベッカー・シャウムは、初期の緑の党はエネルギーだけでなく他の分野についても「スモール・イズ・ビューティフル(small is beautiful)」というスローガンを掲げ、多数の小規模な地域の生産者が分散型の自然エネルギーを供給する前兆を描いていました。

チェルノブイリと気候変動

草の根運動は原子力とオルタナティブについての議論を切り拓いてきたかもしれませんが、1986年4月、当時ソ連だったウクライナで起きたチェルノブイリ原子力発電所のメルトダウンは、議論を急速にまったく新しいレベルへと変化させました。原子力災害は、北部ドイツの大半を含む中央ヨーロッパ全域に放射性物質の雲を送り出しました。ソヴィエトによる事故のアナウンス失敗、ドイツ政府の初動の遅れ、そして、健康リスクに関する不安があいまって、国内はパニックに陥りました。西ドイツの人々はテレビにくっついて離れず、天気予報と汚染の対処法についての手がかりを渇望しました。妊婦は室内に留まるよう強く勧められました。

「ドイツ人は完全にショックを受けました。」と、チェルノブイリの後に「ボビー・ユーイングが死んだ日( The Day Bobby Ewing Died)」というドイツ映画を制作した監督ラース・イェッセンは述べます。「多くの人々が何日も家から外出しませんでした。まるで再び戦争が起こり、防空壕に隠れているかのようでした。ニュースでは、ずっと各地の最新の放射線量を伝えていました。親が砂場が汚染されていることを恐れたりして、子供たちは野外で遊ぶことができませんでした。」

ベッカー・シャウムは、チェルノブイリがドイツ人の原子力発電に対する考え方を変えた歴史的な転換点だったと述べます。原子力災害と放射能汚染は、それまで原子力を支持していたり、態度を保留していた多くの保守派、労働組合、中道の中産階層市民の考え方を変えました。西ドイツの当局による遅く誤った対応は、彼らがそのような災害に対応する準備ができていないことをよく描き出していました。実際、牛乳や乳製品の摂取を控える警告を出すまでに数日かかっていました。(東ドイツでは、当局は大災害を軽視して「事件(incident)」と呼んでいました。また、ある見出しには「専門家によれば、東ドイツではチェルノブイリによる危険はありません」と書かれていました。)ベッカー・シャウムは、チェルノブイリ以降、ドイツ人の大多数が原子力発電に反対するようになり、この合意は次の10年間で展開することとなる。

多くのフォローアップ研究が、ドイツ人は過剰反応したわけではなかったことを示しています。ほとんどの放射性物質の降下がウクライナで起こった一方で、西ヨーロッパの食物連鎖も影響を受けていました。世界保健機関が事故から20年を記念して発表したレポートでは、放出された放射性物質の大半は「10日間浮遊し続け、欧州の20万平方メートル以上を汚染した」と述べられています。またレポートは「森や山のなかの動物や植物は放射性セシウムを多量に吸収しており、きのこ、ベリー、狩猟対象の動物は継続して高いレベルで吸収している」ことを明言しています。(放射性セシウムは化学セシウムの放射性同位体)高濃度の放射性セシウムが災害現場から遠く離れたドイツやスカンジナビアの湖の魚から見つかったこともレポートは示しています。

政治学者で初期のエネルギー転換の父のひとりであるヘルマン・シェアのように、反原発の声を上げる者が党内でも少数でしかない中で、チェルノブイリは社会民主党にとっても決定的な機会となりました。「党内ではますます意見が割れ、原子力からは少しずつ離れていきました。」と、ヘルマン・シェアの娘で社会民主党の現役国会議員であるニーナ・シェアは述べます。「しかし、チェルノブイリがすべてを変えました。社会民主党は、党として原子力発電に対する姿勢を変えました。」

チェルノブイリほど劇的ではないものの、1986年には気候変動の議論もドイツでも巻き起こりはじめました。ポツダムの持続可能性高等研究所で学際的エネルギー気候パネルのリーダーを務めるセバスティアン・ヘルゲンベルガーは、ケルン大聖堂の半分が水に埋まっている様子が1986年のシュピーゲル誌の表紙に載ったことが重要な瞬間であったと見ています。「これがドイツでの気候変動に関する議論のはじまりとなりました。」

ドイツ人は、気候変動が抗しがたい人為的な脅威であることを比較的早くから理解していたとヘルゲンベルガーは述べます。「ドイツでは科学への信頼が厚く、ドイツ人はこの問題を真剣にとらえました」と彼は述べ、気候変動に対する政府間パネル(IPCC)が1990年に発表した第1次レポートを含め、1980年代後半から1990年代にかけて発表された研究がドイツではよく読まれていたことにも言及します。しかし、「気候変動問題を立法府のテーブルに持ち込んだのは緑の党でした。彼らはドイツ国家の問題として制度的に対応することが必要であるとして、その後の数年にわたって他の政党にも働きかけました」と彼は強調します。

米国での自然エネルギーをめぐる喧騒は共和党政権の発足と同じくして1980年代には衰退しました。(ロナルド・レーガン大統領はカーター前大統領が設置したホワイトハウスのパネルを1986年に撤去しました)その一方で、ドイツ北部やデンマークでは急速に進んでいました。「ドイツ人は、デンマーク人が風力発電で実現させていた驚異的な進展を見聞きすることができたのです。」とルッツ・メッツは述べます。

1991年、ヘルムート・コール首相と中道右派政権は自然エネルギーへの投資を促進する固定価格買取制度を世界ではじめて制度化しました。「その当時は限定的な政策でしたが、その後につながるものとなりました」とメッツは述べ、それは主に小水力発電を拡大する効果があったことに言及します。メッツによれば、この政策はチェルノブイリの結果として固まった、ドイツが自然エネルギーを推進し、原子力に反対するという合意を強調するものとなりました。それは、1986年以降は西ドイツで新規の原子力発電所は計画・建設されていないことからも示されています。

赤緑のドイツ

1998年秋、ドイツの人々は16年間政権を担ったコールの保守派を投票によって退陣させ、社会民主党と緑の党による連立政権を誕生させました。「赤緑」政権はすでに多くの自治体やいくつかの州政府で存在していましたが、1998年の選挙は国の根本的な転換を示しました。連立政権は、気候変動対策、自然エネルギー拡大、省エネルギーといった持続可能性にかかわる政策群を「エコロジー的近代化(ecological modernisation)」のもとで推進していくことを約束しました。

2つの党による政権の最初の大仕事は、原子力の段階的廃止と自然エネルギーへの投資推進という画期的な法律を通すことでした。

2000年に最終決定した脱原発は、国内の原子炉(ドイツの総電力の35%に相当)を30年かけて段階的に閉鎖するという、電力会社との妥協案になりました。評論家たちは反原発運動のこの上ない勝利だと見ていましたが、活動家や多くの緑の党の党員たちは長期の転換期間を裏切りと見ていました - もし保守派が再び政権に戻れば、電力会社に合意を見直す余地を残すことになります。彼らは、ドイツの原子力時代を即刻終わらせるために、何年もの間バリケードをつくり、冬の夜にも勇敢に核廃棄物輸送を阻止しようとしてきたのであり、30年もかかる道のりをつくることを望んでいたわけではありませんでした。

自然エネルギーについては、自然エネルギー法(EEG)が2000年に通過し、高い投資コストゆえに市場で従来エネルギーに競合できなかった自然エネルギーを幅広く促進する本格的な固定価格買取制度が確立しました。これは賦課金によって市場価格と生産コストの差を補い、投資を促進させる政策です。また、この法律は、定められた価格で自然エネルギー由来の電力とガスを買い取ることを系統運営者に義務づけています。政府の目標は2010年までにドイツの総電力需要の12.5%を自然エネルギーで供給することでした。驚くべきことに、激しい論争となった脱原発とは異なり、後にドイツを世界の自然エネルギーリーダーへと押し上げたこの法律は、実質的にまったく注目を集めず、国会での反対もないままに通過しました。

エネルギー転換の基礎を準備することとなったもうひとつの要因は、国レベルで電力やガスの市場を開くように設計された1990年代後半のEU指令でした。それらの指令は、それまで著しく独占体制となっていた分野の競争を促進し、エネルギー価格を引き下げることを目的として、規制緩和とEU圏内各国のエネルギー市場の自由化を要求しました。(ドイツでは「Big Four」と呼ばれる4つの巨大電力会社がほぼすべてのエネルギー生産設備と送電網を所有していました)もうひとつの指令は発電設備と送配電インフラの所有権について「発送電分離」を主題としていました。

これらの指令はドイツ国内の法律になり、数年かけて発電と送配電の独占体制は効果的に分解されていきました。これが多くの小規模自然エネルギー事業者の市場参入を切り拓き、顧客は自らのエネルギー供給者を選べるようになりました。今日、ドイツの電力市場には1,000社以上が参加しており、その大多数が自社の発電設備や供給ネットワークを所有していません。さらに、エネルギー転換のキープレイヤーである連邦ネットワーク規制庁(Federal Network Agency)が、そのプロセスのなかで1998年に設立されました。連邦ネットワーク規制庁の使命は、公平な競争環境の確保や送電ネットワークの監督といったことも含めて、電力とガスの市場を規制することです。

赤緑政権が現れ、2005年に退陣するまでの間、ニュースの話題は景気低迷といったエネルギー以外の問題が占めていました。しかし、固定価格買取制度や自然エネルギーの優先接続といったかたちで蒔かれた種は、新しく自由化された市場で根を下ろすことになりました。農家、協同組合、市民グループ、中小企業といった、多くの小規模なアクターたちが、太陽光発電、太陽熱温水器、バイオマス、陸上風力発電といったグリーンエネルギー技術への投資をはじめました。ドイツの自然エネルギー電力の割合は2007年には14.2%へと急増し、当初の目標をはるかに上回るペースで普及が進みました。

「自然エネルギーがそれほど早く、多く急増するとは誰も予想していませんでした」とニーナ・シェアは述べます。「固定価格買取制度は本物の草の根市民運動を生じさせました。ドイツの人々はエネルギー転換を自らのプロジェクトへと昇華させたのです。」

固定価格買取制度の成功(2010年には自然エネルギー電力の割合は17%まで増加)の要因のひとつは、特定の技術を優先しなかったという事実があると、シェアは述べます。「マスタープランがあったわけではなく、むしろ全般的な方向性と自然エネルギーの優先接続を含むサポートスキームがありました。2000年時点で、太陽光発電のコストがこれほどまで劇的に下がり、エネルギー転換の主力となるとは誰も予期していませんでした。」

2010年、アンゲラ・メルケルが主導する中道右派政権は、自然エネルギー、省エネルギー、CO2削減、低炭素交通についての野心的な目標値を設定したエネルギーコンセプトを策定しました。しかし、政府は「橋渡し技術」としての原子力なしで自然エネルギーを急速に拡大することはできないという見方を維持していました。そして、同年、国内の原子炉の稼働年数を10年以上延長する法案が通過し、赤緑政権の段階的廃止からの著しい変更がなされました。

2011年3月11日、地震と津波によってメルトダウンした日本の福島第一原発を見て、世界は衝撃を受けました。原子力災害は、物理学の専門家であるメルケル首相を深く不安にさせ、国内でもっとも古い原子炉3基を即時閉鎖し、2022年までに前倒しで段階的に脱原発を実施する新しい計画を策定しました。

「科学者として、メルケルは気候変動と原子力の危険性を理解していました」とドイツ環境諮問委員会(SRU)の委員長を務めるマーティン・ファウルスティッヒは述べます。「彼女はドイツや日本のような先進国でメルトダウンが起こるとは思ってもいませんでした。彼女が信頼できるのは、まさにそのような事態が起こったとき、彼女は素早く行動し、時間が経ってしまえばおそらく不可能であった道筋をつけた点にあります。」

メルケルが頻繁に「エネルギー転換」という用語を使いはじめたのは福島原発事故以降のことです。2011年秋、政府はエネルギーコンセプトを強化し、いくつかの目標と時間軸をより野心的なものへと置き換えました。2014年、メルケル主導の新たな中道左派政権は自然エネルギー法を改訂し、固定価格買取制度の価格を引き下げ、新たな導入のコリドーを定め、エネルギー効率化により多くの予算を充てました。

ベルリンを拠点とするシンクタンクのエコロジック研究所の創設者で前所長のアンドレアス・クレーマーは、エネルギー転換を理解しようとするとき、「ドイツは他の国のように原子力発電に夢中になっていたわけではない」点をよく見ることが重要だと述べます。さらに、クレーマーは、ドイツ人は自らを「良い行いをすべきという義務感覚をもつ世界の市民」であると考えていると述べます。

「ドイツ人は、世界の人々が学ぼうとするエネルギー転換のモデルを誇りに思っています」と、コストへの不安がありながらも、一貫してエネルギー転換への賛成割合が高い理由をディーター・ルヒトは説明します。「しかし、それが成功したかどうかわかるのは、いまから20~30年後になるでしょう。」

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著者ポール・ホックノース(Paul Hockenos)

ポール・ホックノースは Clean Energy Wire フリーランスコントリビューター。彼はエネルギー問題について国際的にさまざまな誌面に寄稿しており、ブログ Going Renewable の著者でもある。主著に Joschka Fischer and the Making of the Berlin Republic: An Alternative History of Postwar Germany (Oxford University Press)。

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元記事:Clean Energy Wire “The history of the Energiewende, Energiewende – the first four decades” by Paul Hockenos, Jun 22, 2015. ライセンス:“Creative Commons Attribution 4.0 International Licence (CC BY 4.0)” ISEPによる翻訳

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